1960年代、世界は冷戦構造から、多極化の時代に入り、ECの成立、日本の高度経済成長、中国の文化大革命が起こり、アメリカとソ連は宇宙をめぐる対立に入った。一方、この時代は1964年、IBMが世界初汎用コンピュータ「System 360」を開発した時代でもある。
この時代がVRの基礎を築いた理由は自明である。
宇宙をめぐる米ソの争いがVRの予算を獲得させ、計算機の発展が、VRで必要とされる膨大な計算処理を可能にしたのだ。
このアメリカでの財政的に豊かな素地と時代的背景がVRの基礎技術を続々と誕生させた。
映画畑の写真家、モートン・ハイリグ(Morton L. Heilig)は1961年「センソラマ」を特許申請し、1964年、カリフォルニア州サンタモニカの埠頭に設置した。それは、現代のアーケード・ゲームマシンを遥かに凌ぐ機能を持つ究極のVRマシンだった。5万ドルを元手に作られたこのマシンは25セントを入れるとニューヨークのマンハッタンの風景が見えその町の中をバイクで体験できるのである。しかも、耳からはエンジンと町のざわめきが聞こえ、手元にはバイクの振動が伝わり、頬に当たる風を感じながらピザの匂いがしたり、エンジンの油の匂いがする、まさに五感すべてを刺激するマシンなのである。このほかにも「ヘリコプターの試乗」や「サビーナとのドライブ」などがあり、それぞれが80秒程度の長さである。
しかし、さらに驚くべきことは、
この映像は立体映像だった、ということである。
つまり、それらは立体カメラで撮られていた実写映像だったのだ。
その当時もちろん立体カメラなんてなかった時代、彼は35ミリのカメラを二つ並べ、自分で立体カメラを作り上げ、それをつかって、ニューヨークのマンハッタンや、その他のコンテンツを製作していたのだ。恐るべき情熱。恐るべき執念。
彼の目標は映画の究極の形「エクスペリエンス・シアター」だった。そこでは、観客は主体的に映画の中に入り、五感を駆使してそれらを体験する。その夢を実現しようと、彼は資金集めのため、ニューヨークのマンハッタンにもセンソラマを設置したのだが、すぐに壊され、結局、資金は集まらなかった。夢を追う男は、その後もディズニーで3D映画を作りながら道を探り続けたが、夢は叶わず、後年、大学で映画やVRのセミナーを開催していた(1926-1997年没)。
VRの父と言われた男は最後まで、映画の究極の形を追いかけたのである。
そして1960年の夏、カリフォルニアのある西海岸とは反対側の東海岸にあるMITの博士課程へ一人の学生が入ってきた。彼こそ、カーネギーメロン大学を卒業した後、カリフォルニア工科大学を修了した、のちにCGの祖といわれるアイバン・サザランド(Ivan E. Sutherland、1938-)である。1953年にIBMがsystem360を発表し、1959年にはMITではコンピュータの設計・生産などCADへの応用が研究されようとしていた。入ってきたばかりの彼はコンピュータによる図形処理の実際の研究が進んでいないことに驚き、1961年から3年かけて「スケッチパッド」といわれる対話的インターフェースを備えたシステムを完成させた。ここからコンピュータグラフィックスが誕生したといわれる。弱冠25歳の時である。
しかし、CGの魅力に取り付かれたサザランドは、それからその天才ぶりを発揮する。
2年後の1965年「究極のディスプレイ」という論文に、彼はCGが作り出す空間の可能性を余すところなく展開した。その後、ハーバード大学、ユタ大学と移籍し、ついに1968年、彼が30歳の時に後世まで語り継がれる「三次元HMD(ヘッドマウンテッドディスプレイ)」を発表する。国防総省のDARPA(先端技術研究計画局)や海軍の資金によって開発されたこのシステムは当時は天井から吊るすタイプのHMDだったが、顔の動きに合わせて映像が変化するシステムになっていた。
その後、彼は大学の研究室の学生とともにE&S(エバン&サザランド)社を作り、現在はサンマイクロシステムズのバイスプレジデント、フェローとして活躍している。
思えば、彼ほど、華麗で順調な道を進んだVRの研究者もいないのではないだろうか。彼はCGの祖であり、VRの父でもあり、現在はサンマイクロシステムズの副社長でもあるのだ。
この時代がVRの基礎を築いた理由は自明である。
宇宙をめぐる米ソの争いがVRの予算を獲得させ、計算機の発展が、VRで必要とされる膨大な計算処理を可能にしたのだ。
このアメリカでの財政的に豊かな素地と時代的背景がVRの基礎技術を続々と誕生させた。
映画畑の写真家、モートン・ハイリグ(Morton L. Heilig)は1961年「センソラマ」を特許申請し、1964年、カリフォルニア州サンタモニカの埠頭に設置した。それは、現代のアーケード・ゲームマシンを遥かに凌ぐ機能を持つ究極のVRマシンだった。5万ドルを元手に作られたこのマシンは25セントを入れるとニューヨークのマンハッタンの風景が見えその町の中をバイクで体験できるのである。しかも、耳からはエンジンと町のざわめきが聞こえ、手元にはバイクの振動が伝わり、頬に当たる風を感じながらピザの匂いがしたり、エンジンの油の匂いがする、まさに五感すべてを刺激するマシンなのである。このほかにも「ヘリコプターの試乗」や「サビーナとのドライブ」などがあり、それぞれが80秒程度の長さである。
しかし、さらに驚くべきことは、
この映像は立体映像だった、ということである。
つまり、それらは立体カメラで撮られていた実写映像だったのだ。
その当時もちろん立体カメラなんてなかった時代、彼は35ミリのカメラを二つ並べ、自分で立体カメラを作り上げ、それをつかって、ニューヨークのマンハッタンや、その他のコンテンツを製作していたのだ。恐るべき情熱。恐るべき執念。
彼の目標は映画の究極の形「エクスペリエンス・シアター」だった。そこでは、観客は主体的に映画の中に入り、五感を駆使してそれらを体験する。その夢を実現しようと、彼は資金集めのため、ニューヨークのマンハッタンにもセンソラマを設置したのだが、すぐに壊され、結局、資金は集まらなかった。夢を追う男は、その後もディズニーで3D映画を作りながら道を探り続けたが、夢は叶わず、後年、大学で映画やVRのセミナーを開催していた(1926-1997年没)。
VRの父と言われた男は最後まで、映画の究極の形を追いかけたのである。
そして1960年の夏、カリフォルニアのある西海岸とは反対側の東海岸にあるMITの博士課程へ一人の学生が入ってきた。彼こそ、カーネギーメロン大学を卒業した後、カリフォルニア工科大学を修了した、のちにCGの祖といわれるアイバン・サザランド(Ivan E. Sutherland、1938-)である。1953年にIBMがsystem360を発表し、1959年にはMITではコンピュータの設計・生産などCADへの応用が研究されようとしていた。入ってきたばかりの彼はコンピュータによる図形処理の実際の研究が進んでいないことに驚き、1961年から3年かけて「スケッチパッド」といわれる対話的インターフェースを備えたシステムを完成させた。ここからコンピュータグラフィックスが誕生したといわれる。弱冠25歳の時である。
しかし、CGの魅力に取り付かれたサザランドは、それからその天才ぶりを発揮する。
2年後の1965年「究極のディスプレイ」という論文に、彼はCGが作り出す空間の可能性を余すところなく展開した。その後、ハーバード大学、ユタ大学と移籍し、ついに1968年、彼が30歳の時に後世まで語り継がれる「三次元HMD(ヘッドマウンテッドディスプレイ)」を発表する。国防総省のDARPA(先端技術研究計画局)や海軍の資金によって開発されたこのシステムは当時は天井から吊るすタイプのHMDだったが、顔の動きに合わせて映像が変化するシステムになっていた。
その後、彼は大学の研究室の学生とともにE&S(エバン&サザランド)社を作り、現在はサンマイクロシステムズのバイスプレジデント、フェローとして活躍している。
思えば、彼ほど、華麗で順調な道を進んだVRの研究者もいないのではないだろうか。彼はCGの祖であり、VRの父でもあり、現在はサンマイクロシステムズの副社長でもあるのだ。